甲府城 / 甲斐国の拠点、親藩・甲府勤番・甲府城代の置かれたお城

江戸幕府が開かれた後、代々徳川一門と柳沢氏の居城となった甲府城です。

甲府藩:15万石~20万石

登城時期:2017年8月

歴史

躑躅ヶ崎館を拠点に甲斐国を統治していた戦国大名の武田氏が1582年に滅亡すると、領国運営の中心地は躑躅ヶ崎館(武田氏館⛩)から甲府城(別名:舞鶴城🏯)に移ることになります。

甲府城の築城は旧武田領を吸収した徳川家康の命により、家臣である平岩親吉によって行われました。
1590年に徳川家康が江戸に移封されると、今後は豊臣秀吉の家臣である加藤光泰が24万石で入城して徳川氏への監視の役目を追うようになります。

1593年には加藤氏に代わって浅野長政・幸長親子が21万5000石で甲斐国に入ります。

そして1600年の関ヶ原合戦⚔の後には再び徳川氏の支配下に入り、尾張徳川家の徳川義直が25万石で入封します。
その後、1607年に義直が尾張清洲藩53万石に移封されると1616年頃に駿河徳川家の徳川忠長が23万8000石で入封しますが、1632年には改易となります。

暫く幕府直轄地となっていましたが、1651年に甲府徳川家の徳川綱重が15万石(飛び地も合わせると25万石相当)で入封し、ここに甲府城を藩庁とする甲府藩が立藩します🏯。

甲府藩は江戸に最も近い親藩として、徳川一族や譜代大名を城主として配置する幕府寄りの藩として機能しました💨。

1704年には徳川氏一族以外から始めて柳沢吉保が15万1200石で入封することになります。
柳沢氏の実高は22万石相当になっていたと言われますが、1724年には大和郡山藩に移封され、これ以降甲府には幕府の天領(直轄地)拡大政策の職制として「甲府勤番」が設置されることとなります。

その甲府勤番は1866年には廃止されることとなり、その後は明治時代を迎えるまで甲府城代が置かれることになり、8万石~11万石ほどの藩主数名が城代を務めていました。
明治時代になった1868年、戊辰戦争🔥の戦いの舞台(甲州戦争)となり、戦禍を経験した後1873年に甲府城は廃城となります。

お城

内堀・二の堀・三の堀で守られた城内には天守台や本丸、櫓、曲輪が設けられ、北側に山手門、南側に追手門、西側に柳門を築いてお城の守りを固めた構造となっています。

現在はJR甲府駅の開業に伴い城跡が線路で分断されていますが、駅の南側にある天守跡などの本丸と、駅北側の山手御門・清水曲輪跡などに分かれて観光することができます。

山手御門

甲府城北側に桝形と共に復元された城門です。
当時は木橋と土橋で堀を渡って甲府城内に出入りしていたと言います。

稲荷櫓

稲荷櫓

稲荷櫓

こちらは城内の北東に位置する高い石垣のてっぺんに建てられている稲荷櫓です。
甲府藩20万石に相応しい堂々とした存在感✨。

絵図や史料、古写真を元に当時の姿に出来るだけ近づけて復元されたそうです。
築城当時は武器庫として使われていたんだとか⚔。

土台の石垣はかなりの高さがあり、美しい反りを持つ造りとなっています✨。
2004年に木造復元されたもので、中は映像や資料展示でなかなか充実しており、天守閣や博物館の無い甲府城の中では貴重な学びの場所となっています💨。

お城の中でも特別目立った存在なのか、歌川広重の浮世絵の中で「甲斐夢山裏富士」に甲府城の稲荷櫓が描かれているので、当時から庶民にとってもお城を代表する建築物だったことが窺えます。

この櫓、甲府駅側(城外)から見る姿と城内から見る姿で随分と印象が変わりますね。

これはお城でよくある構造なのですが、外敵を威圧する、若しくは庶民に象徴的な印象を与えるために外側は窓や石落としを備えて飾ったデザインとするのに対して、城内側はその必要もないので落ち着いた雰囲気のデザインにしているのです。

他のお城の櫓も同じような構造になってることがあるので是非色々なお城で見回ってみてください(弘前城の御三階櫓とかね!)。

天守台

天守台

天守台

小高い山の上に建つ甲府城の中でも一番の高台に位置するのがこの天守台(お城の天守閣の土台)です🏯。

黒っぽい石で作られた石垣は城の力強さを感じさせますね。
野面積みと呼ばれる工法の石垣です。

江戸の西を守る要衝として15〜20万石の規模を持つ甲府城(甲府藩の藩庁)は、支城的役割を越えて甲斐国の経済をまとめる中心地として機能していました。

1873年の廃城に伴い城の建物は解体されたため、現在城内で見られる多数の建築物(櫓や門)は全て復元されたものとなります。
築城時の遺構を今に伝えるものは石垣だけなんです。

この写真の天守台は上に登ることができ、天気が良ければ富士山や奥秩父山塊までを眺望することができます🗻。

***天守の存否定***
これだけ立派な天守台が存在しているのだから気になるのは天守閣が存在したのかというところですよね。
実は天守閣があったかどうかはハッキリと分かっていないのです。

発掘調査により天守の存在を窺わせる金箔瓦や鯱瓦は出土したそうですが、絵図等の史料は見つかっておらず、今なお謎とされています。

甲府(甲斐国)は武田信玄ゆかりの地であり、立派な城や神社等の観光資源が豊富な歴史都市のため、甲府市としても甲府駅近くにある甲府城の天守閣をなんとか復元したいようですね✨。

お城ファンとしては是非とも天守の存在並びに姿・規模を証明する史料が見つかり、甲府城の天守閣を復元していただきたいと願うばかりです。

鉄門

城の南側、階段の上に左右を石垣で挟まれた巨大な櫓門が現れます。
階段や坂を登ってやっと本丸かと思ったらこの大きさの門!攻め手にとっては脅威ですね。

鉄門は江戸時代初期に建てられ、1875年頃に城内の他の建築物同様に取り壊されました。
今の門は2013年に当時の伝統工法により復元されたものです。

お城は築城時の城主・大名の石高に見合った規模で建てられることが多いのですが、甲府藩は江戸時代を通して15~20万石前後で比較的安定して推移しているのでお城の立派さ(特に石垣)なんかは良好に残り続けたんです。

旅の想い

甲府市の中心地、つまり県庁所在地にある地域を代表する城ということもあり、甲斐国でとても有名な武田氏の城かと思いきや、実のところ徳川氏の城だったんですね❗️。

今となっては城の敷地をJR甲府駅🚃に分断されていますが、周辺の街と合わせて綺麗に整備されているため、観光名所としてとても見応えあるお城でした(今は舞鶴城公園として)✨。

甲府城の見所は復元された櫓や門もそうなんですが、天守台の石垣がとても見事な点にあると思ってます。

かつて天守閣が建っていたのか、はたまた石垣だけで築城が止まってしまったのか、今となっては天守の存在を証明する歴史的資料が残っておらず謎のままとされています。が、立派な石垣があるのだから、きっと立派な天守閣が建っていたのだろうなと、一人想いに馳せている次第であります(´ε` )💨。



甲府城の石高推移

1573年頃:武田信玄 120万石
1583年~1590年:徳川家康の家臣・平岩親吉
1590年~1591年:豊臣秀吉の家臣・豊臣秀勝
1591年~1593年:豊臣秀吉の家臣・加藤光泰 24万石
1593年~1603年:豊臣政権の五奉行・浅野長政と子・幸長 21万5000石
1603年~1607年:徳川義直 25万石(親藩)
1616年~1632年:駿河徳川家の徳川忠長 23万8000石(親藩)
1632年~1661年:幕府直轄領
1661年~1704年:甲府徳川家の徳川綱重 15万石(飛び地も合わせると25万石相当)甲府藩が立藩(親藩)
1705年~1724年:柳沢吉保 15万1200石
1724年~1866年:幕府直轄領・甲府勤番の時代
1866年~1873年:甲府勤番廃止、甲府城代の時代

お城ギャラリー

鉄門

天守台から甲府市内を一望

稲荷櫓

お城南側の水堀

天守台から稲荷櫓を望む

本丸石垣

甲府駅前の武田信玄公像

甲府駅前の武田信玄公像

公式サイト:甲府城


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