【大名・藩とは】戦国時代・江戸時代の大名と藩の関係について

こんにちは。
お茶丸です!

突然ですが、皆さんは大名をどれくらいご存じですか。

大名と聞くと織田信長豊臣秀吉徳川家康がすぐに浮かぶと思います。

ではについてはどうでしょう。

おそらく歴史の授業で習った薩摩藩・長州藩くらいはご存じではないでしょうか。
もう少し知っている人で、土佐藩・会津藩・加賀藩くらいは出てきますかね。

今回はお城巡りに欠かせない歴史用語、大名と藩についてご紹介したいと思います。
お城に関わる大名と藩のことがわかれば、歴史巡りの旅もより一層楽しく過ごせるようになります♪

大名とは

大名
もともとは私田の一種の名田の所有者のことをいい、名田の大小によって大名・小名に区別された。平安時代末頃からこの語が見られるようになり、鎌倉時代以降は大きな所領をもって家臣団を形成した有力武士を大名と呼ぶようになった。(参考:Wikipediaより)
守護大名と戦国大名

鎌倉時代から室町時代にかけて各地に設置された軍事・警備を司る役職・守護職の武家が力を持ち始め「守護大名」と呼ばれるようになり、戦国時代になると室町幕府の将軍権力から離れ、各家が独自に領国経営を行う「戦国大名」が出現するに至ります。
広大な土地を領有した大名家は領国に独自の軍役や税制を課すなど支配力を強めていきました。

この当時、室町幕府と将軍は存在していましたが、その権力は低下しており、日本国内は中央集権化も機能しない内戦に近い状態が続きます。
領地を広げるために大名は近隣の大名と戦をしたり、同盟を結んで敵対する大名に対抗するなど、お家の生き残りをかけたせめぎ合いの時代でもありました。

近世大名

大坂の陣で豊臣家が滅亡すると、戦のない泰平の世である江戸時代が始まります。
江戸時代の大名は「近世大名」と呼ばれ藩のトップ(藩主)となり、徳川将軍家の幕府(将軍)藩(大名)という封建的主従関係(幕藩体制)の下で全国各地に存在しました。

この頃の大名の定義として、主に石高1万石以上の所領を幕府から禄として与えられた藩のトップ(藩主)の家を大名と指します。

江戸時代の大名にはさらに区別があり、関ヶ原の戦いを境に、それ以前に徳川家に仕えていた大名を「譜代大名」、関ヶ原の戦い以降に徳川家に仕えた大名を「外様大名」と呼びました。

両者の違いは以下のようなものがあります。

譜代大名:石高は比較的小さいが、全国の主要な地域を任されていて、幕府の要職に就くことができる
外様大名:石高は大きいが江戸から離れた地域を任され、幕府の要職に就くことができない

また、外様大名の中でも比較的早い段階で徳川に忠誠を誓い関ヶ原の戦いに東軍として参加した外様大名(黒田家・池田家・細川家など)と、関ヶ原の戦い敗北後に忠誠を誓った外様大名(毛利家・上杉家・島津家など)でもその後の待遇に違いがあったと言われています。

伺候席とは

※写真はイメージ

江戸時代、幕藩体制により各地の大名家は参勤交代を目地られ、定期的に江戸城の将軍に謁見しなければいけませんでした。
彼らは江戸城の一角で謁見の順番を待つのですが、登城した大名順番を待っていた控席のことを「伺候席」と言います。

「伺候席」は謁見する大名家の家格、官位、役職などにより定められており、大廊下席、大広間席、溜詰、帝鑑間席、柳間席、雁間詰、菊間広縁詰の7つの席に分かれていました。

大名家にとっては自らの家格を表す場所としてかなり意識されていたと言われています。
現代でも”家柄”といった格を気にする人がいますが、まさにその家の格がかつて大名が気にした”家格”ですね。

藩とは

さて、 ここでようやく藩の説明に移ります。
近世大名でご説明したとおり、石高1万石以上の所領を幕府から禄として与えられた大名家が治める土地の支配機構を「藩」と呼びます

ただ、今日一般的に使われる「藩」の名称は江戸時代には公的に使われていたわけではなく、一般的に使われるようになったのは明治時代以降であり、当時は「○○藩」ではなく「〇〇家」「○○侯」と呼ばれていたようです。

「藩」の中心は藩主の居城に置かれることとなり、お城がある大名は天守などが建つ本丸や二の丸の御殿や屋敷、お城を持つことができない小さな大名は陣屋などを藩庁として使用していました。

徳川幕府の絶対的権力が目立つ江戸時代ですが、「藩」幕藩体制と呼ばれる江戸幕府の権力傘下において一定の自立が認められており、藩独自の政治・経済・社会が形成されていました。
藩の数は江戸時代初期で200藩ほど、幕末にはおよそ300藩を数えます。

細部は異なりますが、イメージとしてはアメリカ合衆国が中央政府に対して50に分かれた各州が独自の軍隊・法律(州法)などを持っているように、「藩」もまた一つの小さな国家のように機能していたのです。

藩と国の関係について

さて、続いて全国各地に設置された「藩」と「国」の関係について見ていきましょう。

現代の日本は47都道府県に分かれていますが、明治時代初期までは令制国と呼ばれる地方行政区分が存在し、60余りの国に分かれていました。

※写真出典:Wikipedia

大和国(やまとのくに)、尾張国(おわりのくに)、武蔵国(むさしのくに)などは聞いたことがあると思いますが、国って何なのかというと、この当時の地域区分のことを指していたのです。

これらの国を一国以上、または一部分を治める大名は国名を藩としている大名家もあれば、代表的な場所を藩の名前にしている大名家もありました。

外様大名・前田家は加賀国、能登国、越中国の三ヶ国を支配しており、その藩は「加賀藩」です。
外様大名・島津家は薩摩・大隅・日向国の一部を支配しており、その藩は「薩摩藩」です。
出羽国は一国が広大なため、山形藩・庄内藩・久保田藩・米沢藩などの複数藩に分かれていました。

1871年の廃藩置県により300近い藩の土地は統廃合され、国境は各行政地域が成立できる30~60万石ほどの面積に分けられ、やがて現在の都道府県の形に移行します。
よく見ると現在の県境と近い場所も見受けられますね。

藩と江戸藩邸について

江戸時代、江戸に置かれた藩の屋敷が江戸藩邸と言います(武家屋敷・江戸屋敷とも)。
主に江戸に滞在する大名やその妻子、家臣などが過ごす場所、そして本国(藩)と江戸幕府の窓口となる現代でいう大使館のような役割を果たしていました。

武家は徳川将軍家と直接主従関係を結ぶ旗本・御家人と大名およびその家臣がいます。
このうち、旗本・御家人・大名には江戸幕府から屋敷を構える土地が与えられており、特に大名の屋敷を江戸藩邸とよびます。
大名家の規模や用途により、上屋敷、中屋敷、下屋敷など複数の屋敷を構える大名家もいました。

薩摩藩邸や長州藩邸などと言いますが、実際には「藩」ではなく、「家」に与えられた土地であり、藩の引っ越しが起きた場合でも江戸藩邸は同じ屋敷を使用していました。

かつては江戸城周辺に各大名家の屋敷が立ち並んでいましたが、江戸から明治に変わると、江戸藩邸はしばらく新政府の庁舎などとして利用された後、老朽化などにより取り壊しが行われ、また太平洋戦争の空襲などにより、加賀藩前田家上屋敷の門だった現・東京大学の赤門や上野公園にある鳥取藩池田屋敷表門・黒門などの一部を残して姿を消しました。
今は跡地に省庁舎やホテルが経っており、石碑で当時の屋敷の場所を伺うことができます。

江戸藩邸跡ギャラリー

藩と石高について

さて、ようやく石高についてご紹介できます。
石高については以前の記事でご紹介しているのでこちらをご覧ください。

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江戸三百藩と言われるように、江戸時代にはおよそ300近い藩が全国に設置されていました。
その藩は藩主を務める大名の石高に応じて大藩・中藩・小藩に区別されます。

大藩:およそ15~20万石以上の藩
中藩:およそ5~15万石の藩
小藩:およそ5万石未満

大名中最大だった加賀藩は102.5万石と、藩の中で唯一100万石越えをしている大藩でした。

大名は幕府への貢献や出世により石高が増やされる加増、逆に幕府の定める武家諸法度に違反したり嫌疑をかけられることで石高を減らす減封、藩の引っ越しを命じられる移封(転封)、所領没収によりお家取りつぶしに合う改易などにより石高の変遷があります。
また、兄弟などに土地を分与して新たな藩を立藩することもありました。

彦根藩の例(加増)

徳川四天王の1人・井伊直政は高崎城12万石でしたが、関ヶ原の戦いの戦功により近江国18万石に加増され、彦根城築城後に井伊家を継いだ井伊直孝の時代には譜代大名の中でも最高となる30万石まで加増されました。

米沢藩の例(減封)

豊臣政権で五大老の一人を務めた上杉景勝は米沢も支配下に置く会津120万石の大大名でしたが、関ヶ原の戦いで西軍に付いて敗北すると、会津90万石は没収されて米沢30万石に大減封されます。
その後、江戸時代を通して上杉家は後継ぎ問題で15万石(景勝時代の8分の1)に減封、幕末に18.7万石に加増されますが、戊辰戦争の敗北で14.7万石に減封されて明治時代を迎えるに至ります。

松平直矩の例(移封・転封)

5歳で家督を相続した松平直矩が治める播磨国姫路藩は西国の抑えとして重要な場所であり、幼少藩主では任が重いことから越後国村上藩に国替え(移封)となります。
成人後に姫路藩に戻るも、再び豊後国日田藩へ移封を命じられ、その後、出羽国山形藩陸奥国白河藩へ移封され、「引越し大名」なるあだ名をつけられたことで有名です。その頻繁な移封っぷりは映画『引っ越し大名!』でも描かれています。

加賀藩の例(分与)

加賀藩は江戸時代初頭は120万石でしたが、藩主の前田利常が隠居するとき、次男と三男を取り立てて越中国富山藩10万石と加賀国大聖寺藩7万石の藩主として立藩することで加賀藩の石高は102.5万石になります。

広島藩の例(改易)

外様大名でありながら関ヶ原の戦いに東軍として参加した福島正則は、戦功により広島藩49万8000石に加増されて毛利家が築いた広島城に入城します。正則は豊臣恩顧の大名のため、徳川幕府からの警戒は強く、洪水で破損した広島城を無断修理したことを武家諸法度違反と捉えられて領地没収・改易処分を下されてしまいます。

 

このように、大名家は徳川幕府権力の傘下において、藩の発展とお家の家格を上げることを何よりも優先して考え奮闘するのです。

まとめ

いかがでしたか。
単に「大名」といっても守護大名・戦国大名・譜代大名・外様大名など様々な種類がいるんですね。
他にも国主大名・城持ち大名などと呼ばれる区分も存在するため、こちらについては追々ご紹介したいと思います。

日本全国を旅していると、必ずどこかの藩だった場所に行くことになります。
歴史に深い史跡(お城や神社仏閣など)を観光する際、説明書きを読むと○○大名、○○藩、○○万石といった記述が必ず出てきます。

なんとなく読んでいても建物や資料の外観しか捉えることができませんが、歴史背景を少しでも知っておくと、旅の見どころが増して二倍も三倍も楽しむことができるようになります

是非、大名・藩・石高に留まらず、訪れる場所の歴史背景位は軽く下調べしておくことをオススメします!
少々マニアックな内容となりましたが、あなたの旅がより楽しいものとなることを願っています!

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